コロナのニュースでかなり気分が滅入ってしまう。そもそも、ニュースなんて人の災難がほとんどで、明るいニュースなんて白々しいものが多い。人間はおぎゃーと生まれた時から不平等の大海に放り出される。性格なんて千差万別。100ワットの明るい性格の人もいれば、10ワットの便所の電球並みの人もいる。ただ、自分の性格傾向を知っておくことはものすごく大切。
自分の心の保険は自分にしかできない。元気な時に、もし落ち込んだ時に見るノートを作っておくのはどうだろうか。お金もない家もない食べる物もない時は、考える気力がわかないのがふつうである。
政府はすべて自己責任の名のもとに国民をできるだけ助けようとはしない。彼らにとって国民とは選挙の時投票するだけの人間であるらしい。


性格が100ワットで、社会適応能力が優れている人は、少々大変な目にあっても立ち直りが早い。いやなことを忘れ良いことばかりを覚えている能力に優れているし、友人も多い。心が外界に向いている。いやなことにあっても布団に潜り込んで思い切り泣けばあくる日は何とか起き上がれる。不運なことの原因はほとんど自分以外のせいにもできる。そもそも自己愛が強い。人に甘えるのもうまい。基本、世界の中心にいるような心理状態。自信に満ち溢れているのである。
育った環境と元からの性格が相まって100ワットの明るい性格ができる。こんな人はコロナ鬱とは無縁である。
しかし、この性格と真反対の人にとってコロナ禍は、出口のない地獄の入り口の立っている心境であろう。


今でこそ、かなりしぶとくなった私ではあるが、もともと内向的で、社会性がなく、挙句の果てに一人遊びが高じて絵描きの道に進んだという経過がある。10ワット人間の典型であった。
心が暗い自己の穴の方向に向いていたし、悩めば悩むほどねじが穴の方向に回ってしまう。何をやっても自己嫌悪に行き着くし、自信とか自己愛とは無縁であった。内向的という言葉はまさに自分のためにあるような言葉であった。どうも私の周りにはくらーいオーラが立ち込めていたようである。それでも、友達と呼べる人が一人か二人はいた。毎朝起きると「またあの憂鬱な一日が始まる・・・」という気分に圧倒されていた。親も姉妹も友人もただ単に私の前に立ちはだかったに過ぎなかった。

こんな私が、50ワットぐらいになれたのは、一つは読書、二つ目は物つくり。この二つは、目を外界に向けてくれたのである。それと元々のしぶとい性格が功を奏したといえる。落ち込んだ時の自分の処方箋は自分にしか書けないという居直りににも似た気持ちを持って以来、こんな場合にはこうするああするといろんなパターンを考えることがちょっとした趣味のようになってしまった。

保険とは将来に備えることである。しかし、保険のことばかりを考えると現在の幸福感がなくなってしまう。この辺のところが慣れないときはうまくコントロールできなかった。今は、アバウトなのも又いいかもしれないという気持ちのゆとりが持てるようになったが、そんな心境に達した今や、人生の終わりに達しようとしている。
お若い人たち、切迫した環境に直面した時、そこから浮上する力こそ、何にも勝る勉強であり自分自身の宝である。他人から見ればつまらない事に見えるかもしれないけれど、自分にとっては何物にも代えがたい宝である。こんなことの積み重ねが自分の幸せに結びつくのだと保証する。

コロナ禍になって鬱にならない人は幸いである。しかし、うつうつとしている方たち、そこから抜け出す方法こそは未来の道につながっている。あなた自身の希望のかけらがきっと見つかるに違いない。(但し、法を犯してはならないし、自分を傷つけてはならない。)

コロナウイルスは目に見えないから厄介である。不安傾向の強い人にとって孤独の環境は耐え難いに違いない。もっとも厄介なのが経済的な問題や家庭環境の悪化であるが、これは個人の問題として片づけられないから、考える限りのところへ行って相談すること。担当者との対応を必ず記録しておくこと。窓口となる者のいい加減な対応がたまればマスコミに垂れ込む。NETにあげる。助けてとあちこちにSOSをすること。恥ではない。持たざる者の当然の行為である。この行為の過程できっと希望のかけらって何かが分かるかもしれない。

もっと大変のがコミュニケーション能力が低い人の場合、書き物にしてSOSをすること。NETで検索して助けてくれそうなNPO法人を探して連絡を取ること。うまく表現できなくても何度も助けてほしいと繰り返すこと。NPO法人はいくつもあるから、1か所であきらめてはならない。自分にとってのランキング表を作れるぐらいやれば、希望のかけらが見つかる。

自分は自分、人は人という辛い現実の中でも人は孤独では生きられない。緩い人のかかわりなら作れるかもしれない。見知らぬ人の中で、挨拶できればこれもまた希望のかけらではないか。挨拶からちょっと優しい言葉をかけることができれば希望のかけらはまた一つ増える。生きていればチリも積もって希望のかけらは希望の太陽になる。

お金で買った幸せはお金が無くなれきえる。お金で買えない幸せは何物にも代えがたい。自分だけの宝が、もしお金で買える類のようなものならちょっと考え直したほうが良い。お金にこだわりすぎると鬱の底なし沼に再び足元をすくわれることになる。

いろんな若者に会って、色んな生き方を見てきた。自分に合った職業を見つけることができた人は希望のおおきなかけらを見つけたようなものだと思う。人は不平等であり不自由である。自分に合った環境を作れない人が多い。少しづつカタツムリの匍匐前進で進むのがいい。ある日突然奇跡が起こるようなことはまずない。それでも長生きした人は自分の一生は本当に幸せだったという心境に達するという。まず生き抜くことである。息をするだけでも大変な日もあるかもしれないが、それが一生続くわけではない。心がつらい時は、体もつらいのである。体を十分休ませてやれば心もいつか回復する。健康的な生き方さえ心がけていれば、希望のかけらはきっと見つかる。希望のかけらを記録しておくと、そのノートは自分にとって何物にも代えがたい宝となる。灰色の時間の中でキラッと光るかけらを見つける達人になって年を重ねることこそ生きる値打ちというものである。

夕焼けと朝焼けを見るだけでも随分違ってくる。面白い雲を見つけることができた日も幸せである。そんな画像をいっぱい保存しておくと気分が滅入った時には自分だけの薬となる。パソコンの中には幸せのかけらがいっぱいにたまってくる。一人遊びが上手になればこの世は恐れることはない。人は人、自分は自分。そのうちに人の目を気にしなくなる。気分も楽になる。内向的な人間でも十分幸せになれる。そんなに頑張らなくてもいい。楽に息することができるようになれば十分である。その上食事を美味しく食べることができれば尚よい。そんな風にして、何とか生きてきた人間もいる。

コロナは人に自分自身を見つめ直す機会をくれたようにも思う。この社会をもう一度見直すようにもなったし、自分が暮らす国についてももう少し分かったような気がする。

コロナ禍で、当たり前のことが当たり前ではなくなった。