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愛というものは、そのへんに転がっていそうなものではなさそうである。又、愛の形もひとつではないらしい。このへんのところまでは、だれにでも漠然と納得しているところである。愛の素と言うか、愛の種みたいなものは人間の場合いつ芽生えるのかというtと、やはり母の目の中から芽生えるのではないか。そして人と人との愛情のキャッチボールは、両親の関係を見ることによって子供は学ぶのではないか。特に母親が夫をいかに愛しているかという度合いが子供に及ぼす影響は大きい。

私の場合、私の母は、子供より夫を何倍も愛していたように思う。子供は第2である。父の場合は、半々であったかもしれない。それでも、私にとって、結婚はいいものであるという前提を両親が作ったように思う。ただ、私が親になった時、圧倒的に子供が大切であった。夫は子供の影に隠れて見え隠れしていたように思う。

愛というものは、育むものである。常に水をやり見守っていないとあっけなく壊れてしまうが、長い年月をかけて培った愛情というものは、そう簡単には壊れない。こんな簡単なことが、長い間よく分からなかった。頭では分かっていても、実感が伴わなかったのである。この歳になって自分の子育てを振り返ると後悔ばかりが先立つ。それでもたったひとつ救われることは、子供達が結婚することを肯定的に見ていることである。
すれ違い夫婦、仮面夫婦、横暴な夫の影で泣く妻、家庭内離婚状態の夫婦、不倫夫婦、・・・色んな夫婦の形があるが、子供にとって、愛情の欠片もなくなってしまった夫婦の家庭で長年生活を余儀なくされることは一種の拷問である。子供に対する暴力は、肉体的なものだけではない。精神的な暴力というものもある。冷えきった家庭というものは子供の心をズタズタに切り裂いてしまう。そうして成人した子供の心の中には、傷つき枯れ果てた愛情のミイラのようなものがコロンと転がっているのであろうか。かれらは、常に愛情に飢えているが故に、愛を求めて彷徨う人生を送るようになる。愛とは与えるものではなく奪うものでしかない。植えた愛情は、疑い深く嫉妬深い。そして、その愛は、必ず見返りを求め、一方的である。

更に極端になると、愛とは支配欲に結びつく。病的なまでに屈折した愛情は、憎しみへと変貌する。憎悪は、満たされぬ愛情故に、活き生きとしたもの全てを否定し、モノトーンの世界に自らを置き、生きながらにして死の世界の住人となる。

垂れ流しの愛情という物はありえない。押し付けがましい一方的な愛情というものもありえない。愛情というものは無償でなければならない。愛情というものは、相互関係の上に成り立つものであるから、愛のピンポンを続けていくうちにだんだん上手になって、時間とともに培われていくものである。結構大変である。

世間一般と考えている家庭というものの殆どが、私も含めてではあるが、少々愛情欠陥家庭であるような気がしてならない。なぜなら、今まで生きてきて愛情深い家庭というもののほうが圧倒的に少数であったように思うからである。世界に憎しみと偏見と差別が満ち満ちている現状こそは、その証拠のようであるが、それでも、ひと目には目立たないが、愛情に満ちた生活を送っている人々がいっぱいいるのも事実である。

私は、少しずつ世界は認識を新たにしつつ、前に進んでいると信じることにしている。人は変わることが出来ると信じている。