5月29日金曜日、感染症対策先専門家会議の記者会見をイライラしながら聞いていた。

専門家と言いながら、新型コロナウイルスの感染が始まって以来、なにか大したことを言った記憶がない。その上、会議の議事録が作成されていないことが解った時点で、この専門家会議は内閣忖度専門家会議だと納得した。
安倍内閣の「記録は残さない、数字は改ざんする」方針に唯々諾々の専門家会議に存在価値は国民にとって存在しない。
内閣が何かあった時に、責任を押し付けるところがほしかったから作った会議なのだ。

この専門家会議は口を開けば、厚生省の認可がないという。そして当たり障りのないことばかりをグダグダいう。それも何故か座長ではなく尾見という副座長が、スポークスマン気取りで言い訳がましく同じことをクドクドと繰り返す。尾見副座長が言うのには、この会議は議事録を残すことを議論決定する場所ではないということである。まるで政治家の答弁。

デジタル大辞泉 によれば、 座長とは「 1 芝居・見世物・演芸などの一座の長。座頭(ざがしら)。2 座談会や懇談会などで、会の進行や取りまとめなどをする役。」とある。専門家会議を見ていると、この場合、1の意味ではなく2の意味かなと思ってしまう。あまり座長なる人が発言しないのは少しは恥じがあるからなのか。


菅官房長官が言うのには「構成員の専門家に、自由かつ率直にご議論いただくために、発言者は特定されない形ですが、議事概要というのは、作成して公表している。」と。

発言者が特定される形で議事録を作る形でなら、構成員の専門家が、自由かつ率直に議論出来ないと言うのは、少なくとも専門家としての諮問機関たる構成員の資格がないのではないか。自分の発言に責任が持てない輩が集まって、一体どんな指針を国民に示すというのか。その指針はどのようにして決められたのか知りたいのは当たり前である。

議事録がなければ、後日見直そうと思ってもわからない。当日出席しなかった人はもどのような事柄が討議されて結論を出されたのかもわからない。適当に話し合われたかもしれない。一人の人の強引な意見が通ったのかもしれない。没になった少数意見も後日参考にできるかもしれない。議事録を作らないのは何か都合が悪いことがあるのではないかという疑問が湧いてくる。

小学校や中学校の生徒会でも議事録は作る。まして今回は新型コロナウイルス感染に関して専門家達が議論した会議の議事録である。居酒屋での座談会なのではない。今後のためにも保存しておかなくてはならないのは当たり前である。人類は今後もパンデミックの危機にさらされることであろう。その時に役に立つのは過去の正しい記録であり、データである。