「好きなもの・したい事」に巡り合うということ。
小学校の3年生のころ短い期間ではあったが、日本舞踊を習ったことがある。その時お師匠さんから手渡されたのが、舞扇との出会いであった。
今でもその時の舞扇を大切に持っている。
その後は毎年夏扇を買うのが習慣になってしまった。こちらの方はほとんど残っていない。とにかく理由はなく扇が好きになってしまったのである。その後、もう一つの好きなものとの出会いは、箔であった。
箔と扇が同時に花開くのには時間がかからなかった。仕事の合間に時間があれば扇や扇面を作っていた。そして三番目の好きなものが雪の結晶であった。扇、箔、雪は、いつまでも飽きることなく自分の制作のテーマとなってきた。余りにも装飾的ではあったが、制作に行き詰まると雪の扇を作っていたように思う。抗がん剤で手が思うように動かないときは、雪の扇を組み合わせて写真を撮っていた。
この3つの他には、アクアと魚。これは、手のかからない水槽として、何でもありの自分の好き勝手なアクアリウムを作り始めたのがきっかけである。そして行き着いたところが月夜の人魚である。
こうして好きなものが次々にできると、毎日が忙しくていくら時間があっても足りない。コロナで暇を持て余している人の時間を譲ってほしいくらいである。
しかし、好きなものを即答できない人たちが思いのほかたくさんいるのには驚いた。漠然と好きなのではなく、夢中になれるもの、エンドルフィンが脳内を駆け巡るようなものである。そして後には充足感に満たされるものである。
好きなものとのめぐり逢いは、一人遊びの延長線上にあるように思えてくる。その人の好きなものは生まれた時から決まっているようにも思う。それを見出すためには自分自身と向き合う時間が必要なのではないか。よく自分探しの旅に出る人がいるが、これも自分の琴線に触れるものを求めて旅に出るのだろうが、これも一人旅でなくてはならない。要するに自分自身を深く知るために日常とはかけ離れた状況下で自己探求をしようというのであろう。
好きなものが仕事になれば素晴らしいと思われる人は多いだろうが、私の経験からいうと、好きなことは道楽の範疇で留めておいた方が幸せなような気もする。損得なく他人の口をはさむ余地のない方が自分の好きな世界に浸れるというものである。