富山 栄子氏の論文「ロシアにおける遵法精神の欠如」からの抜粋
ロシアにおける遵法精神の欠如が、ウクライナ侵攻のおいて問題になっている。ロシアの国の代表たちが、まるで当たり前のように国際法を無視する発言や言動に戸惑いを覚えずにはいられない。
富山 栄子氏の論文「ロシアにおける遵法精神の欠如」には、その経過をロシアの歴史から始まって現在に至るまでをわかりやすく書いておられるので、これは、ぜひとも多くの人達に読んでいただきたいと思って、その中から抜粋したものを以下に上げてみた(この作業は大変だった)。時間に余裕のある方は元の論文をぜひ直接読んでいただきたい。画像はWIKIPEDIAのものを使わせていただいた。
富山 栄子
・近年ロシアでは 「法文化」という用語が用い られるようになったが、もともとロシアの文献では法文化という言葉は使われていなかった。それが、ペレストロイカ期以後、用いられるようになり、 ロシアにはロシア独自の伝統的法文化があるいった意味では用いられてこなかった 。 つまり法文化は1000年あまりに及ぶヨーロッパの中世封建制の中で発展したものであり、ロシアが これか ら導入しなければならないもの として認識されているという。
・、法も正義も西欧文化圏において1000年あまりの歴史の中で発展した概念であり、多くは自然法思想といわれる法思想として発展してきた。
・自然法は理論的にマルクス主義の対極にある思想で、キリスト教文化圏の中で形成された経験的人知の成果で、 この法思想は、ローマ法の法典 を具体的に適用し、解釈する法学、哲学として1000年の歴史を持つ。ローマ法は、ローマ時代 に完成した人類最初の総合的な市民法典である。 ローマ法は古代 ローマにおいて高度に発達 した市民社会的経済活動 をめ ぐる慣習、判例 を集大成しており、法典化という法技術的特色に示される法的合理主義の結集である。「市民社会」とはここでは市民階級 を中心として成立した社会で、 自由 ・平等 ・独立な近代的な個人が取り結ぶ民主的な社会を指す。「契約を守らねばならぬ -Pactasuntservanda」は、ローマ法以来の契約成立の基本的原理である。
・12-16世紀 までにカ トリックお よびプロテスタントの文化 圏に大学が設立 され、ローマ法が継受 された。東方正教国の中では、最古の大学であるモスクワ大学が1755年にようやく創設 されている。大学創設史からも明らかなようにロシア代表 される東方正教文化圏は西欧的合理主義の象徴であるローマ法文化の継受をおくれてスタートさせている。 ローマ法文化という規準でみると、東方正教の文化圏の社会発展への後進性が明らかになる。
西欧諸国には 「契約を守らなければならない」 というローマ法成立以来の契約の基本的原理があった。
・ロシア帝政時代の法意識について、「農民は、隣人や親類を欺くことは不道徳なことだと考えたが、政府の役人や地主を編す ことは別物」とみなした。共同体内の規律には従うが、共同体外の人であるツァーリや役人の決めた法は無視する農民の姿である。
・ソ連時代の人々の行動は、 あたかも企業の物を自分の物と見なし、国家が制定した法を完全に無視してきたのである。
・法の無視、法律概念の不明確 さ、役人の横暴 ・愚鈍 ・無責任、裁判所 よりも検察機関といったロシア独 自の伝統的な法文化は、「非法文化」 (傍点は引用者) と呼ぶべ きものである。
・ ヨーロッパの封建制は相互に私的な関係にある 「王-諸侯-騎士」の間の レ-エン契約関係に基づいたものであった。 レ-エン (封土)の授受を伴 う主従関係 は、 自由人と自由人の間で結ばれる関係であり、従士 (家臣)だけが義務を負うのではなく、主君の側 も法的拘束を受ける。主君が不当な要求を強制するとき、従士はそれに服従する必要がないだけではなく、従士はそれに抵抗する権利、むしろ義務さえ持っていた。こうして、ヨーロッパでは 「誠実」が、従士のみならず、主君にも要求される倫理的態度となっていた。
・一方、ロシアでは、封建的な支配者たちは契約関係ではなく、相互に血縁関係にある者たちの集団 (リュ- リコヴイチ)であった。その後 に成立した絶対主義では、ツァーリが無制限の専制君主であり、土地貴族は君主に対する勤務 を条件 として土地を秩禄として一代限りで授与される官僚以外の何者でもなかった。そして、農地 ・農奴は持ち主の貴族の意思によって売
買 された。ロシア皇帝 も含め、ロシアの貴族 と農民の間には契約関係 はなく、農民は貴族の私物だったのである。 このように、ロシアでは領主権力はヨーロッパの封建領主的発展 をなし遂げず、家産官僚的性格を持つにとどまっていたのであり、契約関係は発展しなかった。
・ロシアの法体系では、結社の自由、良心の自由、出版物の自由などが認め られていなかった。 したがって、 自由と権利 を実現するために自発的に結成された政党は、 どのような傾向の政党であれ、弾圧を避けるために、秘密結社とならなければならなかった。
・1904年に日露戦争が始まり、ロシアが 日本海の海戦で破れると、首都における政治運動が激しくなった。専制に対立し、 ヨーロッパ的な意味の自由と立憲制を求める政治運動が登場した。そして、1905年革命の十月闘争は、ペテルブルク労働者代表ソビエ トの指導の下、広範な市民層の参加 を得て闘われ、◎市民的諸権利、②選挙権の拡大、③国会の立法権 を約束した十月勅書を勝ち取り、ヴイツテ内閣の成立を導いた。
・専制政治が延々と続 き、統治者 と被統治者の双方に法意識が薄かったロシア (傍点は引用者)では、「法の支配」を求める西欧派 自由主義者の運動は、国民全体の中では大きな広がりを持つのは難 しかった 。 労働者は 「市民的民主主義」よりもマルクス主義の影響 をより強く受け、農民は共同体的な農業共産主義を体現 していたため、専制への反対勢力 とはなっても、立憲民主主義の支持者とはなり得なかった。
・社会主義は、資本主義否定の政治経済体制 として誕生 した。
資本主義の需給調整は 「市場」を通て行われるのに対し、社会主義体制下では 「経済計画化」すなわち 「非市場経済」によって需給調整が行われた。
・国家の緊急に際 しては政治権力が法を超越するポテンシャルを常に持つことを正当化する法理であった。
この ≪正統≫法理論は、「法は権力の命令である」という権力主義的 「法」把握にあり、非常緊急性 を常在化する 「革命」の法理論であった。
・法を作 る人々である党 と国家の最高指導部は論理的に法よりも上位にあることになるから、法に拘束されないという理屈が存在 していた。 さらに、「ソビェ ト」方式は、立法機能 と執行機能 との「有機的統一」 を特質とし、権力分立を体制的に拒否てきた 。
・「ソビェト」社会主義体制は、共産党の 「指導」の もとに勤労者代議員 「ソビエト」の民主的立法機能が形骸化 ・空洞化 し、「ソビエト」執行機関の行政機能が異常肥大し、国民から離れ、社会を窒息させる 「行政的 ・指令的」党官僚の牙城と化したのである。
・マルクス・レーニン主義者はこれに影響され、 コミュー ンをロシア革命に先行する 「プロレタリア独裁」の革命政府と規定した。
・国家あるいは社会の命令、決定を行使する下級の執行機関は、裁判官か ら警察官にいたるまで党の上位機関の指示 によって行動 し、義務 を果た していた。いかなる種類の政策決定にも党以外の意見が反応することは現実にはなかった。 こうした階級支配、すなわち党組織 による全国家機関、全社会の完全な一枚岩的支配体制は、分権的な市民社会の政策決定 とは異な り、多元的な社会的要因、諸現象などを考慮する必要がな く画一的で形式的であった。
・膨大な法令、拙劣な立法技術、複雑な法システムという条件のもとでは、何が現行法なのかわからなかった。 こうした法体系が社会全体を覆い、法が過剰であるのがソビエト社会の特徴であった。
・権力者は法を超 える存在で自由気 ままに振舞い上からは窓意的ともいえる厳 しい法が下されるが、庶民はどこ吹く風で法の裏をかいてしたたかに生きてきた。
・ロシアで最 も汚職が見 られるのは、警察、税関、検察庁、裁判所であると48%の国民が回答 している。以下、国会、各省庁 などの国家権力 の最高機 関 (34%)、交通警察(320/a) と続く。そして、T3llシアで汚職 を根絶することは可能か という問いに対ては290/Oの国民は可能であると回答したものの、61%の国民は不可能であると回答している。
・ロシアではペ レス トロイカで法治国家論が復活 したが、森下 (1988) によると、それは法治主義の確立をめざし、その標的は官僚主義的な行政機構 にあった。ソビエ ト中央権力 自体がこの官僚主義の頂点に立ってお り、官僚主義はソビエ ト権力の生 まれなが らの病巣であった。
・権力主義、非能率、腐敗などソ連の官僚主義の弊害は深刻であり、 ゴルバチ ョフ政権を除き、それとの闘いに真剣に取り組んできたとは言えない。
・ソ連邦省一般規定により、省は、法律や閣僚会議決定に基づき、 またはその執行のために、「命令」や「訓令」を発し、あるいは 「指示」を与えることができる。実際にはそれらは 「規則」、「回章」、「指示」、「方策」、「勧告」、「指令」等種々の名称で呼ばれてお り、「訓令」という言葉で総称されることが多かった。ソ連では法律の数は少なく、 この膨大な訓令が国家機関や市民の活動 を日常的に規制 していた。時には官庁の法令や一回限りの「上か らの指示」さえ法律 と見なされていた。ソ連ではこの訓令が法律に代わる役割を果たしていた。
・本来国民を守るべきはずの法が国民を守ってくれず、逆に国民はソ連の省庁が発した行政立法に苦しめられ、住民の法ニヒリズムを生んだ。。貨幣に代わり、コネが物とサービスの流通を媒介していた。
・筆者は、ロシアの数百年にわたる歴史がロシアの共同体 と専制に体現される基層社会を形成し、その上に社会主義体制が成立したと考える。 何百年にもわたり続いてきた共同体と専制の伝続がロシアにおける法のニヒリズムを作りあげ、その上に社会主義体制が追撃ちをかけるように、市民の法に対する否定的現象を育んできたものであると認識 している。
・「1917年のロシア革命の投階でも農民は人口の8割を占めていたから、農村の共同体秩序 とそれに基礎 をお く農民の法意識が、ロシアの法文化を規定 してきた。
・ロシアにおいては実質的平等原理によって商品経済が発達せず形式的手続 きが嫌悪され、法ニヒリズムが蔓延したのであって、これが現代ロシアの法ニヒリズムへの経路依存性 となっている。
・法が市民を守ってこなかったロシアの社会 において、市民が法を遵守 しないのも理解で きよう。 ロシア人にとって、法は自分たちを統制するために、国家が作り出した制約で、それを遵守しようとする内在的なインセンティブはなく、その行動規範 も法に適合したものではなかった。帝政時代から、窓意的な行政規則が法律にとってかわり、それは市民を全く守ってはくれず、市民を管理してきたにすぎない。
以上からも分かるように、権力者が一方的に自分に都合の良い法律を作れば、国民は法に対する信頼感を失うのが当たり前である。それが何百年も続けば文化習慣の域に達する。ロシアの国民にとっては当たり前のことも民主主義の法治国家では理解に苦しむこととなるのである。