中村 逸郎著「ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教」に興味がわく。
ウクライナ国内にあるロシア正教会では、避難民たちへの援助を断るところも多くある。事実、避難民が歴史的な大修道院に支援を求めに行ったところ、「避難民を収容する場所はない」と冷たくあしらわれたという。
ロシア正教会について疎い私はその意外さに驚くとともに、又してもあれこれ調べ始めた。
キリスト教は、大きく分けて3つある。カトリックとプロテスタントと正教会である。
2018年12月、ウクライナの首都キエフ(キーウ)で開催された協議会によって、ウクライナ正教会の独立が決まったのである。モスクワ総主教庁は、この承認に反発したのは言うまでもない。今回のウクライナ侵攻の裏には正教会おける宗教戦争の要素も複雑に絡み合っている。
ロシア正教会の最高指導者は、モスクワ総主教のキリル1世(75)という人で、プーチン大統領の盟友として知られていて、ウクライナ侵攻についてもプーチン大統領を擁護する発言を説教区的に繰り返してきた。
キリル1世はロシア第二の都市サンクトペテルブルク出身、プーチンも同じくサンクトペテルブルク出身者である。
聖職者でありながらクレムリンの宮殿内に住んでいるとされ、豪奢な生活を非難されたこともある。現実主義者で聖職者というよりは出世欲の強い官僚のようだと評する外交官もいるほどである。
キリル1世はプーチンの統治を「神による奇跡」と評し、ウクライナの政権を「邪悪」と呼び、聖職者に事実上の闘争を呼びかけたとされている。
専制体制を敷くプーチンは、「宗教と核の盾がロシアを強国にし、国内外での安全を保障する要だ」と語り、欧米の価値観に対して、ロシアの精神的な支柱としてロシア正教会を後押しし、政権の求心力として持ち上げたのである。
ここでロシアと正教会に関する書物を検索していると「ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教」という本に行きついたが、何しろ高い。2万円以上もする。迷った挙句、内容紹介だけで満足することにした。
「ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教」
ー著者中村 逸郎ー
1956年、島根県生まれ。学習院大学法学部卒業。同大学大学院政治学研究科博士後期課程単位取得退学。政治学博士。島根県立大学助教授を経て、現在、筑波大学国際総合学類長・教授。専攻はロシア現代政治。著書に『東京発モスクワ秘密文書』(新潮社、のちに『ソ連の政治的多元化の過程』と改題して成蹊堂より刊行)、『ロシア市民―体制転換を生きる』(岩波新書)、『帝政民主主義国家ロシア―プーチンの時代』『虚栄の帝国ロシア―闇に消える「黒い」外国人たち』(ともに岩波書店)『ロシアはどこに行くのか―タンデム型デモクラシーの限界』(講談社現代新書)などがある。
-内容紹介-
欧米諸国はロシアの将来のモデルにはなりえない! 復権著しいロシア正教会と大統領プーチンの癒着と野合。その末に生まれた超権力の構造とはいかなるものなのか? 現地を縦横に歩いて観察し、混迷する社会のゆくえを展望した異色のロシア論。
「宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と若きマルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』で記したように、70年間の共産主義を捨て貧富の差が激化するロシアにおいて宗教の復興ぶりは著しいものがあります。
一時はオウムなどの新興宗教が勢力を伸ばしましたが、いまは旧来のロシア正教会の力が復活しています。プーチンがロシア正教会と在外ロシア正教会の和解を斡旋したりソ連邦時代に没収された財産を返還したりしたことによって、正教会は一種の財閥の観を呈しています。
カトリックと違い、かつてのロシア正教においてはピョートル大帝以降、総主教が廃止され皇帝(ツァーリ)が教会の首長でありました(皇帝教皇主義)。それは英国国教会の首長がイギリス国王であること以上の強い権力であり、人民(ナロード)にとってツァーリは神でした。
さて、なぜプーチンが正教会に対して融和的なのか……。すでに多くの教会ではプーチンを「聖人」とみなすイコンが掲げられはじめていると著者はいいます。その一方で強烈な反発も生じているとも。
プーチンとロシア正教の癒着、野合。それはソ連邦時代の個人崇拝の流れを汲みながらも、よりロシアの「古層」に根ざした権力アプローチであり、西側や日本のインテリによる「民主化」必然論を容易には寄せつけないものでもありましょう。
時の政権に取り入るキリル1世を見ていると、帝政ロシア末期の祈祷師で、ロシア帝国崩壊の一因をつくったとされるラスプーチンを思い出した。
国民の支持を得るためには宗教家の力を借りなければならないプーチンは、本当に国民の80%の支持を得ているのだろうか。
この本どうしても読んでみたい。図書館にでも行ってみるべきか。