Img0486
父の生涯は、怒りを糧に生きてきたようにも思える。9人兄弟の末っ子に生まれた時は、父親はスペイン風邪で他界した後だった。その後具体的に何が在ったのか詳しくは知らないが、父はその苦難の半生を事細かに母に語っていたらしい。私は、母を通じて間接的に父の物語を聴いた。

望まれない子であったことも、兄弟の家をたらい回しにされたのも、父はどれほど傷ついたことであったろう。そのすべての怒りを、エネルギーに変えて「今に見ておれ。」とがんばった。思い通りに行かないと父は、荒れ狂った。お酒を浴びるように飲んでは、号泣した。泣き上戸であった。幼い私の枕元で、「ごめんな、ゴメンな、・・・」と泣く父の涙が、私の顔に落ちてきた感触を今も忘れられない。泣いていたのでは力が入らないということが、その後、私にもだんだん分かるようになっていった。

近所の家中と喧嘩して廻り、母と私はその後始末に駆け回った。いつもめそめそ泣いていた私もその内だんだん気が強くなっていった。
それでも、犬猿の仲のお隣のタバコ屋さんが、アクセルとブレーキを踏み間違い、我が家に突っ込んで来た。隣のおじさんは顔面蒼白で、「すんません。」を繰り返していたが、父は、こんな時は、ものすごく優しくなる。横で見ていたは母と私は、あんぐり口を開けて呆れていた。その後、煙草は隣で買うようになった。やれやれであった。
父の怒りの裏側には、愛情を求めてやまない孤独があった。時々、父の底なしの孤独を垣間見ることがあったが、その時の私は精神的に自分のことで精一杯で、とても父を癒やすすべを持たなかった。

還暦を過ぎた頃、余り大きな声で社員を怒鳴り、耳の鼓膜が破れた。3回ほど繰り返してやっと大声で怒鳴るのをやめたが、歳のせいもあって片方の耳は余り聞こえなくなったらしい。その後、怒りもだんだんマシになっていったが、会社の売上も減っていった。何だか、父の人生は日本の縮図を見ているようでもあった。

時々、自分の口から父と同じ怒りの言葉が出る。ドッキリである。