
街なかに住んでいると、何も無い広々とした空を見ることはあまり無い。

さすがに、木の電柱は見かけないがコンクリートの電柱電線が縱橫に走っている。

初めは、地震になってこれが倒れてきたらどうなるのかと不安であった。

しかし、そのうち見慣れてきたというか違う目で眺めてみると、何とアートフルなことかと思うようになってきた。

空に描かれた抽象画としてみると、同じ構図のものはない。

それ上、夕暮れ時の電柱は何故は切なく哀愁さえ感じさせる。

街の通りにズラッと並んだ電柱の列を見通していると、沢山の生活の営みがあるんだなあと思いやったりもする。

かなり以前から、電柱をデジカメで撮ってきたが、家と家の隙間から見える電柱というのは珍しい。

街なかで空を見上げる人は少ない。私が空を見ていると周りの人も上を見る。中には「何があるのか」と訊いてくる人もいる。「電線を見ている」と答えて納得してくれる人は殆どいない。彼らは一体何を期待していたのか。

日が落ちる頃、デジカメを持って街なかをうろついていると、「お家へ帰りたい」としきりに思う。
電柱は、きっと人を灯りの付いた家に導く魔法の力を持っているんだと思う。例え、それが一杯飲み屋の赤ちょうちんであっても。

夜明けの電柱も又捨てがたいものがある。人々が眠りから覚めて起き始めると、これらの電線の中を電気が忙しく走り始めるのだ。今では電気と人類は切っても切れない絆で結ばれている。「電気、命」である。

トランスの形も最近ではかなりアートフルになってきた。

この画像なんか絵になる。絵になるためには、空の雲の具合が重要である。もこもこの雲がいい。後で如何用にも加工できる。

車や人が通るので、ゆっくりカメラを構えていられない。それで一瞬で空をカットする小気味の良さもある。

構図をゆっくり決めている暇はないので、直感に頼るようになってくる。

いつも通っている道でも改めて電柱を見ると、一度いいなあと思うと、次からは親しみを込めて見上げてしまう。

写真を撮って後からPCで編集して見返して、いい画像だけを残すのであるが、日によっては何十枚も撮ってたった一枚のこともある。

高圧線は、電柱の親である。子供は扱いやすいが、親の高圧線のある景色は撮りにくい。横長になると余計なものが入ってくる。車の中から写すのでピントが甘くなる。その上、あまりにも縦に長いので扱いにくい。

変電所の中に入れないのが実に残念である。この周りで写真を撮っていると、不審な目で見られる。

下の方にはフェンスはあるし、雨は降ってくるし、何度行ってもあまりいい写真は撮れない。きっと何気なく立ち寄ってみるのがいいのかな。自然なのがいいのだ。
電柱のファイルの中には何百の画像がある。これからももっと増えるのだろう。
只、昔の木製の電柱は最近見かけたことがない。町の中から昔の風情がどんどん消えていくのが寂しい。