暑さ寒さも彼岸までと言われる。そろそろ涼しくなってくるのだろう。


夏が終わるというのはどこか物寂しい感じがするが、解体現場は物寂しい感じを通り過ぎて虚しさばかりが押し押せてくる。


水もやらないのに雑草たちはここ狭しとばかりにはびこって解体現場を覆い尽くしている。


家屋の方は崩壊が始まっているのに、雑草の威勢は未だに衰える様子がない。ものすごい生命力である。写真を撮りに行って蚊にいっぱい刺されてしまった。


この雑草は誰が刈るべきなのか。裁判所に聞きに行くのか。

今回の裁判は異例ずくめで注目に値する。ありとあらゆることについて、現行の司法制度や行政のあり方自体が問われているような気がする。それでも司法に携わる方たちの真摯さが伝わってくる。


お金と時間を使って裁判に持ちこんだ不動産業者たちは、そのためにどれほど多くの税金が使われているのか考えたことがあるのだろうか。まあ、こんなことまで配慮する人たちであれば断りもなく人様の家を解体するようなことはしないというものだ。


悲惨な現場を見ていると、「もし、あの時、仲介業者が一言謝ってくれていたら、・・・」と思わずにはおれない。そして、「もし、解体する前に話し合いがあったならば・・・」と。


どうして地主は何も言いにこなかったのだろう。他の2件には話をしているというのに。

父と地主の間に一体何があたのか。何度も病院の玄関まで杖をついて電話をかけに行って危篤になっていた父。死に際に、父は誰に電話していたのだろうか。


一人の人間の執念が、この解体現場を覆っている。私達はどうあっても、父の無念をはらさねばならないのだろう。


日本という国がややもすれば、人治国家なのかと疑うようなこともあったが、裁判を通じてやはり日本は法治国家なのだと確信するようになった。


法が人の生活を縛るような理不尽なこともあるだろう。人は間違いを犯しながらも、よりよい未来を信じて変化していくものである。今回の裁判が、何かのきっかけになることを祈っている。


詳しいことをブログに書けば、また、弁護士に説教をされるので、書けないのが辛い。


見ている人がいないからと言って、ゴミを捨てていく人たちは後をたたない。
防犯カメラに写っているというのに。


解体現場を眺めていると、道徳観念や公共心が育たなかったのは一体どうしてなのかとよく考えてしまう。


この家が、潰れる前に裁判の決着がついていることを願う。その前に近所迷惑なので、雑草とゴミの掃除をしてほしいものである。私達は法的には出来ない立場にあるらしいと警察で言われた。

相手の弁護士さんは、「早く損害賠償の訴えを起こせ。」と何度も言うそうである。私達が何を望んでいるかは、顧問的存在の方に言ったはずである。お忘れならもう一度聞かれてみてはどうか。