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小保方晴子氏の記者会見を見ていたが、「未熟」という言葉を度々使っていた。この未熟という言葉を彼女はどのような意味で使っているのだろうか。誰か質問してほしかった。そつの無い受け答えとお目々パチパチはさておいても、彼女の発言の背後でうごめくどろどろの責任のなすりあいや権力争い故に、強気発言がなされたように見受けられるが、あくまで推量の域を出ない。STAP細胞の有無は今の処私には分からないが、論文の書き方だけは科学者としてはあるまじき内容で、こんなミスを犯すぐらいの人に果たして確かな実験データをとることが出来るのか疑問である。思い込みが激しいと、アバウトな性格の人の実験結果のデーターに影響が出るかもしれないので、科学の名において追試されるのであるが、ネイチャーの論文採用には追試がまったくないのが問題で、もし、追試が行われていれば今回の騒動は無かったと思う。
こんな世界的な発見であるならば、世界中の科学者が追実験をするはずである。しかし未だに成功したことが無いのはなぜ。「細かなコツ」とは何なのか。職人の神業であっても近年では数量化される時代である。今回の事件を教訓に、科学論文の書き方を統一するべきではないか。そして、書物にすべきである。小保方晴子氏の指導教官達には責任は無いのか。もし、「科学論文の書き方」(文科省出版)なるものがあって、全国統一試験でもあれば尚グーである。

そもそも、高校と大学の勉強の違いは何かということを、近頃の大学では余り問わないらしい。30才代の彼女の時代であれば、大学では何を学ぶのかということを強調される教授が居ないのかもしれない。高校の勉強は既存知識の習得を主にするが、大学では方法論を学ぶことを主眼としている。即ち、専門分野の高度な知識の習得を通じて、その結論に至る科学方法を学び、新たなる課題を解決出来るようになることである。ここで言う「科学方法論」こそが大学で学ぶべき本筋である。しかし、今回の小保方晴子氏の事件をもう一方から眺めてみると、学者の倫理観の低下という問題も浮かび上がってくる。では、学者とは何者であるべきか。私が思うに、時代の先端に立ち、理性と知性の灯りをともし続ける役目を担った人を学者というのではないかと思う。そいう意味で、「未熟」を連呼する小保方晴子氏には学者としての資格に欠けると言わざるをえない。只、今回、関係者の先生方は、科学者としての反面教師の役割を十分に演じてくれたと思うし、ネットの情報発信の威力の大きさも又再認識させてくれた。どのようなことにもプラス面はあるものだ。