もう2度とは読まないであろう文学書の山。亡くなった夫の書籍が地震で転がりでてきた。


書棚に2列に入れていたので奥にどんな本が入っているのか確かめもせずそのままにしていた。

とにかく夫は本をよく読んだ。それも読む速度が早いのである。次から次へと途絶えることなく何かしら読んでいた。その中でも、三島由紀夫が好きで単行本で買って本棚に並べていた。息子たちが大きくなったら読むからと言って保存していたが、どの様な超常現象が起こってもその可能性はゼロである。二人の息子が三島由紀夫の単行本を読む日は永遠にやってこないと確信している。今まで処分できなかったが、地震で書棚が見事にひっくり返ってやっと決心できた。今年のお盆は、もしかしたら夫が化けてでてくるかもしれない。


夫のことばかり言ってられない。私ももう2度と読む気もない哲学書の山を隠し持っている。


若い時は、こんな本を読んでみようという気力があったことに我ながら感心する。


大学生であるためには哲学書を読んでいなければならないと思いこんでいたのである。読んでも読んでも理解できない本の山。結局、翻訳が下手くそだから理解しづらいという結論に落ち着いたのを思い出す。

それでも2冊だけは処分せずに手元に残すことにした。ハイデッガーとベルグソン。ハイデッガーはもう一度読んでみれば、この年でなら理解できるかもと淡い期待をまだ持っているからで、ベルグソンの創造的進化はこんにちを予言しているようで面白く時々読み返したいからである。

昔は大学では哲学が必修であった。現在、息子たちは哲学の代わりにPCが必修のようである。

夫の後始末をし自分の後始末も自分でしてから この世におさらばする女性が多いだろうなと思いつつ整理に励んでいる。