「雲龍」という名前のつく物が、こんなにあったとは。

雲龍というお菓子をもらって、何とはなくいつもの習慣でNETで検索してみたら、次々と雲龍と名のつくものが出てきて驚いた。


俵屋吉富の雲龍の包装紙。雲の模様である。


昔からほとんど原材料は変わっていないのであろう。和菓子は洋菓子に比べてカロリーは低い。


包装紙をとるとこのような龍の包みが現れる。


雲龍の由来が書かれている。一部抜粋。

『銘菓「雲龍」は俵屋吉富七代目菓匠・石原留治郎が生み出した一世の名品です。
留治郎は京都・相国寺が所蔵する「雲龍図」(狩野洞春筆)に感銘を受け、龍のたくましさや雄々しさを菓子で表現できないかと長年にわたり構想を練り、試行錯誤の末に、村雨餡とよばれるそぼろで、小倉餡を巻き込んだ独特の姿をした菓子に仕上げました。
この菓子は留治郎が生涯の師と仰いだ、相国寺四代目管長、故山崎大耕老師の命名により「雲龍」と名付けられ、それまで生菓子でしか創作できなかった菓子が、画期的な一本の棹菓子となり誕生したのです。』


フィルムも取り除くとこういうあんこの棹が出てくる。


輪切りにして取り分ける。断面が雲の模様になっている。食べてみると普通のあんこのお菓子であるが、作られた当時としては斬新であったのであろう。

雲龍と言えばまず浮かぶのが京都の有名寺院にある水墨画であるが、その中でも、近世初期の建仁寺復興にからんで海北友松が制作した日本を代表する水墨画群が有名で、重要文化財「建仁寺丈障壁画」五十面のうち礼の間を飾る八面の襖絵がある。 近世以来武門・禅門に特に好まれた龍を画題として海北友松によってえがかれた水墨画は龍の中でも随一の作品と言える。

 龍は仏教を守護する異教 8種の神・八部衆の一神に数えられ、法の雨(仏教の教え)を降らせると言われている。
雲龍に対し、竜雲と言う言葉があるが、これは龍の形をした雲で、吉兆として尊ばれてきた。

古くは雲龍船という名の船があり、幕末期に考案された水車利用の動力外車船。嘉永六年(一八五三)ペリーのアメリカ東印度艦隊四隻の浦賀来航により刺激された朝野の海防意識高揚のもとに、蒸気船に対抗すべき動力船として考案されたもの。


悲劇の空母・雲龍(うんりゅう)は、日本海軍が”マル急計画” に基づき横須賀海軍工廠で建造した航空母艦。(昭和19年)8月に竣工。第一航空戦隊に所属したが、太平洋戦争末期に竣工したため空母機動部隊として実戦に参加する機会はなかった。10月中旬以降の捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦の時も、内海西部で待機していた。
1944年(昭和19年)12月中旬、内地から東シナ海を航行中の12月19日夕刻、アメリカ海軍潜水艦レッドフィッシュに雷撃され、沈没した。


小浜市の若狭高校の小型実習船「雲龍丸」の完工式が2021年二十五日、小浜漁港であった。一九一九(大正八)年にできた旧小浜水産高の初代「雲龍丸」から数えて七代目に当たる。二十七日に予定する海洋科学科の実習で本格的に運用された。

この様に雲龍という名は海に関係したものにつけられることが多い。


植物の名前にも雲龍と名のつくものが沢山ある。この場合は枝ぶりが龍の様にくねくねとした形で龍を思わせるから雲龍という名前がくっついたのである。代表的な物には、「雲龍柳」「雲竜ツゲ」があるが、この他にも、「雲龍山桑」「雲龍カラタチ」「雲龍大島桜」「雲龍椿」「雲龍梅」「雲龍ハシバミ」「雲龍つつじ」「雲龍茶」「雲龍杜松」「雲龍ボケ」などがある。


第10代横綱で雲龍 久吉という力士が幕末にいた。雲龍は1823年 – 1890年6月15日)は、筑後国山門郡大和村(現:福岡県柳川市)出身で追手風部屋。
現役を引退して年寄・追手風を襲名し、相撲会所の筆頭(ふでがしら、現在の相撲協会理事長)を務め、明治維新後の大相撲復興に手腕を発揮した。1891年6月15日に死去、67歳没。

また、横綱土俵入りのうち、「不知火型」を考案した人物とされている。


泉涌寺の山内の一番奥、別院の雲龍院。
南北朝時代の北朝第四代天皇、後光厳天皇の勅願で作られたお寺で、
真言宗泉涌寺派の別格本山とされている。
御本尊は本堂龍華殿に安置されている薬師三尊像で、
西国薬師霊場四十番札所でもある。

この様に、雲龍という名前は、縁起の良い名前と考えられて来た。