泣くということ
泣くという行為は、ストレスに対する万能薬のように言われてきたが、その質にもよる。
赤ちゃんは1歳になるまで、涙は出ないらしい。1歳以後も感情が未分化な赤ちゃんにとって泣くことは、一種の自己主張であり、快不快の情報の伝達手段である。大人になっても、この種の涙を流す人がいるが、本人自身が精神的な成長の機会に恵まれなかったせいで、全く認識できない。シクシク泣こうが、わあーわあー泣こうが、要は、「私の気持ちを解ってくれない。」「何にもしてくれない。」「私に言うことを訊いてくれない。」即ち、昔流行した言葉、「くれない族」の涙なのである。一見すると、悲しくて泣いているように見えるが、根底は赤ちゃんの涙である。
この「くれない涙」かどうかの判定は、簡単である。ストレス解消に流す涙ではないので、いつまでもくすぶり続ける不平不満が続く。挙句の果てに正体不明の体調不良へと繋がることもある。一種の心身症である。どうすればこの体に悪い「くれない涙族」をやめられるようになるのか。これには、ちょっと時間がかかる。なぜなら、保護者に依存している未分化な赤ちゃんから自立した一人前の人間になることを意味しているからである。
「くれない涙」は、悪質でもある。単なる不平不満や愚痴は、ダイレクトであるし、言葉であるから何に不満なのか周りの人にも理解できる。自己虫な言動であれば、まわりも批判したり改善を求めたりできる。しかし、涙という濡れた衣をまとった物言わない被害者的なパーフォーマンスなので、周りの者は何か自分たちが悪いことでもしたのかとたじろぐ。この後は、「くれない族」の生まれ持った性格によっていろんな展開を見せる。
人権もない、腕力もないその昔、女性たちの一部が身につけざるを得なかった悲しき技だったのかもしれないけれど、現代は違う。日本では、女性にも憲法で人権は認められているし、男女平等をうたっている。又、発達心理学の本を読めば、未成熟な自分を晒しているだけなのだと直ぐ分かる。弁解の余地はない。
このくれない族が親になり、子を育てるとその子もこの技法を自然と身につける。負の連鎖は続くのである。
もし自分がこの「くれない涙」を流すくれない族だと気が付き、恥ずべき自分の特性を治したいと決心した時、具体的にどうすればよいか。
まず、自分の主張は口に出して説明する事に慣れる。口に出してみると漠然と自分が思っていたことに対して少しは客観的になれる。自分に出来る事は自分でやる。次に自分でやらねばならないことは自分でやる。自己充足できるかが一番の問題。そして最後の仕上げに、「くれない涙族」を見つけて足を洗わせることが出来たら、「くれない涙族」卒業である。自分が自分の良き親になるのである。負の連鎖は断たれる。
生まれ変わった自分に、きっと満足し、何事が起こっても自信を持ってその後の人生を送れるようになる。・・・はず。