ウクライナについて知識は高校の教科書程度で止まっているので、何十年の空白が続いていてゼロに等しい。


ウクライナは、ヨーロッパのなかでロシアに次いで2番目の国土面積(日本の1.6倍)を有している。人口約4100万人(日本の3分の1)。民族的にはウクライナ人78%で言語はウクライナ語。宗教はウクライナ正教及び東方カトリック教等。
現在のウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)であり、大統領制と議院内閣制を併せ持つした半大統領制を採用している。大統領は、5年任期で国民投票によって選出され、国会は、最高議会であり、一院制で450議席である。

ウクライナの歴史を抜きにして、ウクライナの人々の愛国心は語れないので、NET上で得た事柄を年代順にかいつまんで列挙してみる。

・ウクライナで見られる新石器時代の農耕集落跡は、東欧最古であると考えられている。

・縄文土器文化の人々はインド・ヨーロッパ語族のゲルマン人・バルト人とスラヴ人の祖先になったが、竪穴墓文化の担い手のウクライナ南部の遊牧民の祖先となったと推測されている。

・キンメリア人は、ホメーロスの『オデュッセイア』を初めとする古記録・古史料で見られるウクライナの最初の民族である。

・5世紀後半、権力の空白地域となっていた「荒野」で、武装した人々が共同体を作り、「コサック」と呼ばれ、ポーランドとリトアニアの臣下でありながら国王の支配を受けず、軍人の特権と自治制を有する特殊な集団であった。

・ウクライナはポーランドやリトアニアの傭兵としてさまざまな戦争に参加し、勢力を拡大し1648年には、首領のボフダン・フメリニツキーが中心となって反乱を起こし、独立を果たした。

以上を見てもウクライナの気質が窺える。

・ローマ帝国崩壊後、キエフ公国までさかのぼればロシア人の起源はウクライナだといえないこともないが、ピョートル大帝(1682~1725年)によって大国となったロシアにおいて、ウクライナはロシア本体の辺境であるたんなる小ロシアでしかなかった。

・大きな変化は、1812年初夏ロシアへのナポレオン侵攻によってもたらされた国民国家独立運動である。その影響下で、1853年イギリス・フランスとロシアが戦ったクリミア戦争(~1856年)が起き、ウクライナの民族独立運動が生まれる(ウクライナ民族は存在し、ウクライナは独立国であるべきだという主張)。

・1917年にロシア帝国が崩壊すると、ウクライナは独立を目指して立ち上がる。

・1920年にソビエトの勝利で内戦が終息し、ウクライナ社会主義共和国が成立。1922年には、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソビエト連邦を結成した。しかし、その後のソ連下のウクライナでは厳しい弾圧政策がおこなわれ、多くの政治家、知識人、文化人などがその対象となった。

・ウクライナは「第二次世界大戦」時も独ソ戦の激戦地となり、当時の人口の2割に及ぶ800万人から1400万人もの被害者を出した。戦後は国際連合加盟国として総会に議席をもつも、「ソ連の一部」という扱いから逃れることはできなかった。

・第二次世界大戦では、連合軍の勝利の後、ロシアはウクライナ共和国を拡大し、結果的にウクライナにロシア人以外が住むようになるが、ウクライナの人口の多くはロシア語を話すロシア人であった。

・しかしその後は内乱状態に陥り、その隙を見てロシアが介入し、結果的に、ドニプロ川を境にポーランド・リトアニアの支配下に置かれる「右岸ウクライナ」と、ロシアの支配下に置かれる「左岸ウクライナ」、そして下流の「ザポロージャ」の3つに分裂することになった。

・1985年にソ連の最高指導者に就任したミハイル・ゴルバチョフの政権下で「ペレストロイカ」と呼ばれる改革がおこなわれるなか、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる運動が起こる。
長年ソ連政府から弾圧されてきたウクライナ語の解放を訴え、1989年9月、ウクライナ人文学者や作家を中心とする民族主義大衆組織「ペレストロイカのための人民運動」が結成された。1990年3月には国会にあたる最高会議の議員選挙も実現し、彼らを中心とする民主派勢力が多数の議席を獲得した。
最高会議は7月に「主権宣言」を採択。ウクライナのさまざまな権利をソ連から取り戻すことを宣言し、8月24日に独立を宣言。12月に実施された国民投票で支持を受け、独立が達成された。

・1986年には「チェルノブイリ原発事故」という悲劇にも見舞われた。
現在のウクライナのシェルターはソ連時代に作られたものである。

・1991年のソビエト崩壊によって、ウクライナは独立したが、ロシアはこれらの地域がNATO(北大西洋条約機構)に入らないという条件付きで、独立を認めた。
しかし、ウクライナがEUに参加すると、結果的にNATOに入ることになり、ロシアと敵対することになり、これがウクライナ問題をこじらせている最大の原因である。
更に、ウクライナは今のロシアにとってEUとの緩衝地帯に位置するという地理的問題もある。その上、ウクライナを流れるドニエプル川そしてドネツ川(ドン川)が、ロシアへつながっていることである。北の海しか持たないロシアの重要な輸送路は、黒海である。黒海に入った船はロシアに向かってこれらの川を上る。ロシアにとって不凍港は何物にも代えがたいのである。

・ウクライナは、2014年の「マイダン」のクーデターで、ロシアと対立する資産家ポロシェンコが、大統領ヤヌコヴィッチをロシアに追放し、親米政権を創る。ここからウクライナ問題が起こる。ロシアは東部に軍隊を送り、その結果、ウクライナの中にロシアに近いルガンスク共和国とドネツク共和国が生まれたが、これをウクライナも西側も国として承認していない。

今回のロシアによるウクライナ侵攻とよく似たことが2014年のクリミア半島で起こっている。

1991年にソ連からウクライナが独立すると、クリミアは「クリミア自治共和国」と「セヴァストポリ特別市」としてウクライナに帰属するが、半島の住人の半数以上がロシア人だったことから、ロシアへの帰属を求める声が高まった。しかし、この動きを後ろ盾していたロシアが手を引いたために、クリミアの独立運動は一時沈静化した。

クリミア問題が再燃したのは、2014年のこと。2月18日に首都キエフで「ウクライナ騒乱」といわれる運動が起こり、当時大統領だった親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチに対して、親EU派が抗議をし、ヤヌコーヴィチはクリミア半島に亡命する。
2月27日、クリミア半島で親ロシア派の武装勢力が蜂起。数日で議会、空軍基地、空港などを占領。3月2日にはウクライナ海軍が投降し、ロシアに本部を明け渡す。翌日からロシアは、「ロシア系住民の保護」を理由に軍を投入。3月16日には「ロシア編入の是非を問う住民投票」が実施され、96%を超える賛成多数で可決。翌3月17日にクリミアはウクライナから独立し、ロシア編入を宣言した。

・ただウクライナは、ロシアへの編入は憲法違反だと主張。現在の状況を「占領」だとし、他国も巻き込んで係争状態が続いている。この事件以降ウクライナは、いつかは再びロシアが攻めてくることを覚悟していた。前親ロシア政権がロシアより借り入れた借入金の返済を断ったこともロシアの口実となっている。

・ウクライナの東部の天然ガスが、西欧へ流れていく点で、ウクライナは重要な地点である。
又、アメリカの軍事戦略とロシアの軍事戦略が真っ向から対立する地域でもある。


こうして見てくると、ウクライナは歴史に翻弄されてきた地域である。オスマントルコの時代には黒海沿岸部はオスマントルコの支配を受け、ロシアの南下によってロシアの支配を受け、つねにいずれかの強国の支配を受けざるをえなかった地域でもある。陸続きの国の悲劇である。

それにもかかわらず、ウクライナは諦めることなく、困難な状況に屈っしようとはせず戦ってきたのである。旧ソ連の崩壊を招いたのはウクライナのせいだとみるロシア人もいる。しかし、世界はウクライナに味方し、ロシアに味方する国は少ない。追い詰められたロシアが怖い。プーチンの正気を願うばかりである。

ロシアの国民は戦争を望んではいない。戦争を望んでいるのは専制君主のプーチンなのだ。