ウクライナ侵攻におけるロシア軍の一般市民に対する残虐行為には目を覆いたくなる。キーウ近郊での多数の民間人虐殺では、手足を拘束されて頭を撃ち抜かれたり、拷問の跡が残る遺体などが路上に散乱した画像は、全世界に衝撃を与えた。


「戦場の狂気」について、次の記事に詳しく書かれている。
「戦場の狂気」はこうして起こる…ロシア兵を「鬼畜」に変えた“集団心理”の危ない実態(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)

「全体主義国家の、この2%が他の者を踏みつけにして軍や諜報機関などのトップに上り詰める人です。ソシオパス(社会病質者)と呼ばれる人格異常者で、残虐な行為を平気で行う者もいます。

ただし彼らは反社会的な犯罪者とは違う。国家の方針や上官の命令といった“自身にとって正当な理由(必ずしも正義であるとは限らない)”を与えられた場合に、人間の本能に逆らってもそれを遂行できる能力を持っているということです。

ですから社会的成功を手にすることが多い。プーチンはソシオパスであると同時に冷徹なナルシストでもある。全体主義国家でトップになれる要素のすべてが揃っています」

WIKIPEDIAによると、
「自己愛」とは、自分自身への独りよがりな陶酔を意味し、自己愛の強い者は自分のことばかり気にし、好き嫌いの激しく、自分の非をなかなか認めようとせず、言い訳ばかりする人である。自己愛性パーソナリティ障害の者は手っ取り早く自分の立場を上げるため、身近にいる人をおとしめて自己愛に浸ろうとするため、配偶者など周囲の人へ酷い言葉や人格否定を繰り返すモラハラを起こし、自分にとって都合のいいことだけを繰り返して相手をマインドコントロールしようとする。異常に傷つきやすい自尊心を持ちながら、他者を見下すのに、自分が見下されることを極端に怖れる。患者の思い通りに物事が進んでいると周囲は問題に気付けないが、思い通りにならなくなると周囲へ怒り(ヒステリー)、抑うつ、引きこもり、強迫症状(強迫性障害)を呈する。他人と人間関係を上手く保つことができず、人を思いやることが難しく、他罰的である。

また、「ソシオパス」とは、サイコパスが遺伝性であるのに対して後天性である。
その特徴としてはいろいろあげられるが、その程度も人によりいろいろである。
良心が異常に欠如している。
他者に冷淡で共感しない。
慢性的に平然と嘘をつく。
行動に対する責任が全く取れない。
罪悪感が皆無。
自尊心が過大で自己中心的。
口が達者で表面は魅力的。

又、最近ではダークエンパスと呼ばれる共感性にあるサイコパスパーソナリティも研究されるようになってきた。


軍事心理学の世界的権威で、元米陸軍士官学校の心理学・軍事社会学教授をつとめたデーヴ・グロスマン氏によれば、
「最前線の戦いは、言ってみれば武装した兵同士の縄張り争いであり、片方が屈服すれば終わります。残虐な行為、多くの殺害を行うのは、2番目に入ってくる小部隊です。攻撃計画がうまくいっておらず、状況が不安定な中で町を制圧する必要がある彼らは、上官から強いプレッシャーを受けています。

そうした部隊の前で非武装の市民が逃げ惑うと、彼らにとって相手はもはや“餌食“にしか見えなくなる。そして残忍な行為に及ぶのです。

集団でなされることも重要な要素です。これは動物的な本能であり、たとえばキツネは群れになると食べきれないほどの鴨を殺すことが知られています。無意味な暴力は、集団の中で兵士の匿名性が保たれている時に行われるのです」


ミルグラム実験は、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)が1963年にアメリカの社会心理学会誌『Journal of Abnormal and Social Psychology』に投稿した、権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものである。
ミルグラム実験 – Wikipedia

実験の結果は、普通の平凡な市民でも、一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明するものであった。そのような現象をミルグラム効果とも言う。

東欧地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンにおいては、裁判の過程で描き出された彼の人間像は人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む、一介の平凡で小心な公務員の姿だった。「一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起され、この疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言う。

上官の命令で躊躇することなく戦争犯罪的行為に及ぶ兵士は、平常時においては平凡な人であることが多いが、戦争という非日常的な閉ざされた状況下における強いプレッシャーにさらされた結果、 正常な判断基準領域が空白になり上官の命令にのみ機械的に従う異常行動に反応するようになるらしい。まじめな普通の人の方が、この傾向が強いという。そう考えると、戦争裁判においては命令を下した上の者がその責任を負うべきである。

死の恐怖に曝された兵士のトラウマも、研究されているが、そもそも、戦争という大義名分で人殺しを推奨すること自体がおかしいのである。戦争という言葉を、「集団人殺し」という言葉に置き換えれば、人はそれほど簡単に兵士にはならないだろう。兵士がいなければ戦争は起きない。兵士とは使い捨ての戦争の駒でしかない。貧困と無知が兵士を作る。それが証拠には、今回のロシア兵の死亡者はほとんどが地方出身者で都会の者はごくわずかであるらしい。

兵士が生死をかけて戦うのは、部隊で培われた友情や家族の為であり、イデオロギーや愛国心の為でないという研究結果も出ている。