2月3日は節分で豆まきの日である。物心ついたころよりほとんど毎年この豆まきをしてきた。あくる朝、家の前や中庭や室内のあちこちにまめが転がっていたものである。高校のころ、古文で豆まきの由来などを習ったが、今では、ほとんど覚えていないので、もう一度おさらいをすることにした。


「福まめ」と書かれた炒り大豆の袋の裏に豆まきの由来が書かれている。

「宇多天皇の頃、鞍馬山の僧正谷という所に住んでいた鬼神が京の都に侵入しようとしたので都の人々が三石三斗の豆を煎って鬼の目をつぶして災厄を逃れたということが豆まきの始まりであると言われています。宮中の追儺(鬼払い)の神事となり庶民の節分の豆まきの始まりになったと言われています。(話の大辞典)」

宇多天皇は平安時代の人で、867年(貞観9年)に生まれ、887年(仁和3年)に即位、代位年数10年、931年(承平元年)(年齢65才)に崩御された。
宇多天皇は基経の死後は親政を推し進め、綱紀粛正、民政の活性化など一連の政治改革は後に寛平の治として高く評価された。天皇は藤原保則や菅原道真を登用した。譲位後、仏道修行のため仁和寺に入り、剃髪され、仁和寺域外に御室を構え、修練され、寛平法皇といわれた。
尚、在位期間中に書いた日記「宇多天皇宸記(寛平御記)」は、現存する天皇の日記としては最古のもので、当時宇多天皇が飼っていた黒猫に関する記述があり、現存する最古の「猫飼い日記」となる。


では、節分とは何のことであろうか。

暦の上での節分は農作業の目安となる「雑節」の一つで、立春や立夏、立秋、立冬の前日、つまり季節のはじめの日を指し、年に4度訪れるものである。この日は季節の分け目に当たるため、古来厄除けなどのさまざまな行事が行われてきた。それではなぜ、春の節分だけが残ったのかというと、農作業に従事する人々にとっては春を一年の初めとするのが自然だからでこの日が一年の年初めの日と考えられていた。また、春の節分は大寒の最後の日にあたるため寒い日が多く、病気にかかりやすい季節でもあるため、厄除けの儀式が重要視された一面もある。

「追儺(ついな)」は、一般庶民の節分の由来と言われており、8世紀(平安時代)ごろから行われていた鬼払いの行事で、邪気や疫鬼を追い出すために宮中で大晦日の夜に行われていた。追儺はもともと「神役が疫病を司る目に見えない鬼を追い払う」という前提であったが、平安時代末には「実際の鬼役を追い出す」という現在の節分に近い形になったと言われている。


なぜ大豆をまくのかについてはさまざまな説があるが、「魔を滅する」から「魔滅(まめ)」になったという説が主流。
昔は鬼を払うのに豆だけではなく、米・麦・粟・炭などが使われていたようである。穀物には魔よけの力があると信じられていたようである。
大豆が使われるようになった由来には、大豆が鬼毒を殺し、痛みを止めると当時の中国の医学書に書かれていたことによるらしい。また、京都の鞍馬で毘沙門天のお告げに従い、鬼の目をめがけて大豆を投げつけて退治したという逸話もある。

北海道や東北などでは殻つきの落花生がまかれるのは、雪に降る地域では落花生の方があとで拾いやすいからで、。最近では衛生的、合理的という意味で全国的に落花生がまかれることも増えてきた。


豆まきの大豆が煎ってあるのは、豆まきの後で年の数だけ豆を食べて厄除けを祈る際、煎ってある方が美味しいからである。豆まきは、もともと中国明時代の風習である。日本に伝わったのは室町時代で、年男が「鬼は外、福は内」と言いながら、炒った豆をまく。また、地方によっては節分を「年取りの日」と言って、この日に一つ年をとると考えていた。そのため、年の数だけ豆を食べるという風習が生まれたらしい。

昔は豆から芽が出ることは縁起が悪いと考えられていたので、芽が出ないようにしっかり炒る必要があった。

参照昔話「昔人を食べる鬼がいて、困った人々は神様に泣きついた。そこで神様は「この豆から芽が出たら人間を食べて良いが、もし出ないうちに人間を食べたら罰を与えるぞ」と鬼に豆を渡したという。「たやすいこと」と、畑に豆を撒いた鬼だが、いくら待っても芽が出ない。なぜならその豆は炒ってあったからで、この後鬼が人を食べることはなくなったという。」

そこで、節分で使う豆は必ず炒らねばならず、もし万が一撒いた豆から芽が出たら、鬼……すなわち病魔に襲われると考えた。また、五行で見ると「金」にあたる鬼に、「水」にあたる豆では弱い。そこで「火」を入れることで鬼より強くするのだとする説もある。

また炒るは「射る」に通じるため、鬼退治にふさわしいと考えられていたらしく、昔は、鬼を追い払うのには、豆ではなく桃の弓と葦の矢を使っていたといわれる。
参照2月3日は節分。節分の歴史と由来、 豆をまく理由とは?節分の日の住まいのしつらえは? | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME’S PRESS】
「平安時代、追儺は大晦日に開催されるもので、方相氏と呼ばれる鬼役が手下役の役人を引き連れて宮中をまわり、厄を払うものだった。方相氏とは鬼神のことで、金色に光る目を四つもち、朱色の衣装を着て盾と矛を持った、いかにも恐ろしい風貌をしている。当初はその姿をもって悪鬼を祓う善神だったが、9世紀ごろになると悪鬼と見なされるようになり、弓矢でもって追われるようになってしまった。鬼は疫病を象徴しており、鬼の姿をした疫病を弓矢で追い払うことで、病気の流行を封じ込めようとした。」

悪鬼を追い払う善神の鬼神がいつの間にか話が入れ替わって追われる身になるとは、気の毒である。話は広く広まってしまうと、元に戻すことは難しいのは、昔も今も変わらない。しかし、「節分の鬼を元の善神に戻す会」なんていうのがあってもいいような気がする。